黄金山神社黄金山神社
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黄金山神社

基本データ
鎮座地 宮城県遠田郡涌谷町涌谷字黄金宮前23
祭 神 金山毘古神 天照皇大神 猿田彦命
配 祀 軻遇土神 月読命
例 祭 9月15日


由 緒
この地(黄金迫)は古の小田郡に属し、聖武天皇21年(749、奈良)春陸奥守百済王敬福はじめて黄金を得て2月貢し、同年壬五月金を出した山ノ神の神主小田郡日下部深淵に叙位したことが「続日本紀」に見えているので本社の創祀は蓋しこの年になされたものである。延喜の制小社に班す。
 
天正18年(1590、桃山)3月野火のため社殿鳥有に帰したが3年後の文禄2年再建、後久しく荒廃して寛政・享和のころには年々の祭礼は行われず、従来の道さえ絶え果て、礎石のみ存し空しく「黄金宮」の名だけのこっていた。しかるに文化10年4月伊達白子の人沖安海いたくこれを憂い、社跡を実査の上、金30両を献納し神社の再興の途をひらいた。
 
文政天保の交村内に悪疫流行した。それは神事怠慢の神譴によるものと恐惶して村民相はかり天保6年彼の安海の献金を基金に神社再興に着手、同8年拝殿(現存)一宇を竣工した。
 
本殿は明治4年4月愛宕神社(もと亘理郡に在り。天正12年亘理元宗の勧請、同19年字大崩に移社、邑主亘理家(伊逹氏)の崇敬社である。明治42年5月字月浦の月山神社と共に本社に合祀する。)の本殿を改造したものである。これより先明治5年5月県社に列せられる。 広大な境内地には黄金洗沢、黄金洗井があり日本最初の出金地といわれていたが、昭和32年社殿附近の発掘によって建物基壇が発見され、また箆書天平文字瓦・単弁重蓮華紋鎧瓦・唐草連珠紋字瓦・牡瓦など夥しく出土し、これら境内の遺構は、産金にちなんだ建物跡と考えられ、 奈良時代の産金遺跡として、いよいよ歴史的意義が深く、昭和34年9月「産金遺跡」として県の史跡に、又、42年12月には「黄金山産金遺跡」として国の指定をうけた。なお拝殿前には大槻文彦博士の撰文「日本黄金始出地碑」(明治45)と山田孝雄博士揮毫の大伴家持の歌碑(万葉集巻18所収)が立っている。

社 殿 本殿 神明造2坪
幣殿 3坪
拝殿 入母屋造7.5坪。
史跡指定地
境内地 2,319坪85
境外地 1反6畝26歩
山林 1町5反5畝10歩
氏 子 100戸
神 職 日下部深淵(天平21)。
江戸時代 鈴小壱岐守景次、同景古、筑前守景光
明治以降 今泉大四郎、小山田憲一郎、
一条隆雄、平泉怒、一条明美(本)

「大日本史」云。黄金山神社、今在遠田郡涌谷村黄金迫之地、世似牡鹿郡金華山祠為本社者誤矣。天平勝宝元年小田郡始出黄金、因建祠祭山神。延喜制列小社。
 
『続日本書紀』云。天平21年2月(749年)、陸奥国始貢黄金、於是奉幣以告幾内七道諸社。
 
「同書」同年閏5月、出金山ノ神主小田郡日下部深淵少位下。
 
沖安海 伊勢白子の人、本居大平に就き国学和歌を学び人其の学才を称さる。当時嘉永36歌仙の1人として著名あり。世々染形紙販売を家業とし常に奥羽地方に行商した。「黄金山神社号」を著し本社の復興に尽した。就いて学ぶ者が多かったが、「栗原旧地考」「陸奥軍團旧地考」の著者樺翁岩崎綱雄(栗原郡北字沢村の人)はその門人であるといわれる。
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